片づけられない女たち

片づけられない女たち

片づけられない女たち

妻が興味あると言うので図書館で借りてきた。私自身は ADD ではないのだけど、この本を読んで救われた気がした。おそらく昔の人が宗教に対して感じただろう意味での「救われた」気がした。医学をバックボーンに持つ宗教(笑)。

これが能力に極端なデコボコのない人々であれば、対して意識もせずに、〈自分はだいたいこのくらいの人間だ〉という感覚を自然と身につけていく。一つ一つの経験が、さしたる矛盾もなく自然につながるし、成功も失敗も、得意分野も苦手分野も、おおむね一定の範囲におさまっているからだ。ある日の成績はAだったのに翌日はFなんてこともないし、ある日は独創力があると言われ、翌日は無責任だ、やる気がない、と責められるということもない。きちんと努力をすれば、たいていはそれなりの成果が得られる。努力と結果に直接の関係がある、と言ってもいい。(p.80)

努力と結果に直接の関係がないのは怖いことだと思うが、ADD でなくても関係ないケースは多い。こういうことに意識的でいられるようになりたい。

エドワード・ハロウェル博士は、「自分の精神状態が健康かどうかを判断するのに、家計簿をきちんとつけられるかどうかを規準にするのは間違いですね」という。私も、博士の言いかたを借りて、こう言わせてもらおう。自分が大人かどうかを判断するのに、家の片づけかたを規準にするのは間違っている。ものが見えるということを大人かどうかの規準にするなら、視覚障害のある人はどうなるのだろう? まっすぐ歩けるということを規準にしたら、骨折したとたんに大人ではなくなってしまう。(p.86)

なるほど、と思いつつ、そうだとしたらいったいどこに大人の規準があるというのだろう、とも思う。やはり大人について語る以上、なんらかの規準は必要だと思う。

治療の目標は「ADDをかかえた人間として充実した人生を送れるようになること」だが、そこへ至る道のりは人によって千差万別だ。生活環境や症状によって、それぞれに障害もあるだろう。しかし、何度コースを外れようと、必ず戻ってきてまた歩みつづけるのが何よりも大切である。(p.237)

「必ず戻ってきてまた歩みつづける」のはジョーカーだと思う。ずるいと思う。まあでも「医学っぽい宗教(笑)」だと思って読むと、むしろ素敵な教えだ。

肝腎なときに身近な人に励ましてもらえないのは寂しいものだ。腹が立ったり、もどかしく思えたりするかもしれない。でも、家族や友人たちもこれからさまざまな感情を処理していかなければならないのだから、皆さんを十分に支える余裕まではないのだ。だから、初期の段階では、外部の他人に助けを求めることが欠かせない。(p.271)

日本人の感覚としては納得しがたい部分があるが、それを差し引いても、確かにそうだと納得。外部に頼らなくては仕方がない状況というのは、ある。

もう一度強調しておくが、仕事というのは、全部できなければ結果はゼロというわけではない。常に失敗を怖れながら仕事に追われるよりも、いい仕事をすることに専念するほうがずっとよい。(p.318)

これもすぐ忘れがちだけど、真実だ。完璧な無駄なんてこの世に存在しない。以下のふたつの残酷な文章も、なぜか救いの言葉として心に響く。

あなたたちの過程は、普通の家族のようになることはないだろう。あなたたち夫婦は決して、よその夫婦のようにはなれないだろう。

もちろん、魔法ではないのだから失敗もあるが、簡単には絶望しなくなる。(p.390)

最後、主題と関係ないけど、「クロゼットに隠れる」という言い回しが頻出する。たぶん英語の慣用句なのじゃないかと推測するのだけど、どうなのだろう。