- 作者: 丸谷才一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/06/15
- メディア: 文庫
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丸谷才一は仮名遣ひの人、といふ先入観から逃れたくて軽い気持ちで借りた本だつたが、思つたより面白い。
SF 小説の科学要素を文学に置き換えたやうな、そんな感覚を持ちながら読んだ。SF がきつかけで宇宙飛行士になつたりタイムパラドックスの理解を深めたりするやうに、この小説を読んで文学を志す人が現れたら素敵だらうなと思ふ。源氏物語を読んでから(まだ未読なのです)、もう一度読みたい。以下例によつて枝葉末節の引用。
ほら、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」といふあれです。この「百代」は全部が全部「百代(はくたい)」になってゐる。あれがわからないんだな。どうしてハクタイなんて仮名を振るんだ。(略)わたしなんか昔の教科書でヒヤクダイと教はつて、それで別に問題なかつた。芭蕉の格も、『奥の細道』の値打も、ちつとも下がらなかつた。何もそんな、ハクタイなんて、変に恰好つけて、むづかしくしなくたつていいぢやないか。(p.70)
むかし村上春樹で似たのを見たことがある。別にステレオでなくてもただのラジオで聴いてもモーツァルトは素晴らしいのだ、といふ風な文章。読んだ瞬間はなるほど納得したが、でも音楽はやはりラジオよりステレオが、ステレオよりホールで聴くのが素晴らしいわけで、以降詭弁に騙されないやうに慎重になつた。だからハクタイも少し考へたのだけど、これは作者のいふとほりだと思ふ。仮名遣ひが表音的だつたならハクタイも味があつただらうけど、さうぢやないので。
(略)作つた句を芭蕉の句と並べて黒板に書き、「やつぱりおれは下手だ」なんてつぶやいて、教室中を沸かせてもいい。そして興味をいだいた生徒は全文を読んでしまふ。さういふのが子供に日本語を教へる、古典にしたしませるつてことでせう。(p.76)
なるほど生徒側にとつてはこれが理想的。でも、かういふことのできる人でないと先生になれない、といふことになると、先生側の敷居が高くなりすぎる。学校の先生よりもまづは作家の先生に頑張つてもらふのが現実的か。
「文学」という言葉は英語の literature の訳語で、これを使う以上どうしても西欧近代のいろいろな作品が――『悪の華』とか(略)とか、その他さまざまの作品をつい連想してしまいます。それで厄介なことになります。しかしここで「文学」という言葉はよして、芭蕉がよく口にする「風雅」という言葉を借りることにしますと、区別がはっきりして、具合がいいような気がします。この風雅は、文学が純粋で自立していて何か隔絶した様子なのと違って、ほかのいろいろな価値と結びついているものでした。(略)風雅にはいろいろ、いい加減だったり、だらしなかったり、迫力が弱かったり、迷惑な点、いけない点もあって、明治の後半にはまったく時代遅れになり、文学に完敗してしまったわけですが、しかし、うまく行ったときには、おっとりしているし、のんびりしているし、立派だし、しっかりしているし、取柄も多かったのです。(p.84)
「それで厄介なことになります」とは名言。「風雅」といふ捉へかたは素敵。現代語だと多義的な概念で表現するしかないが、当時は「風雅」のはうがプリミティブだつたのだらうと思ふ。この後出てくる「嗜み(たしなみ)」も同様。
「さうか。想定質問集がある」
「『源氏物語』で一番おもしろいのはどこ、といふのも訊かれます。『若菜』の上と下、そして『柏木』のところ。とにかくおもしろいから、すぐに現代語訳を読んで、とすすめるの。その前は粗筋(あらすぢ)でいいから、つて」(p.340)
さうか『若菜』と『柏木』だけ読めばよいのかそれなら簡単と思ふが、その前の部分のあらすぢをどうやつて理解するかが当面の課題。やはり古典は難しさう。あ、いや、食はず嫌ひはいけない。機会を見つけて読んでみよう。
旧仮名遣ひ(正仮名遣ひ)、読むのにはまつたく抵抗なかつたが、書いてみると忘れかけてゐるところが多い。旧字(正字、今回は使はなかつたが)についてはほとんど頭から抜けてゐる。意識して使ふやうにしないとなあ。