大人のための「恐竜学」

恐竜、というだけで何でもそれなりに楽しめてしまう。恐ろしいジャンルだ。

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なお、恐竜の性に関しては謎も多く、例えば竜脚類のような大型種がどのような姿勢で交尾をしていたのかはまったくわかっていません。(p.115)
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「まったく」というところが、良い。

大人のための「恐竜学」(祥伝社新書)

大人のための「恐竜学」(祥伝社新書)


分類思考の世界

「進化」とか「認知」とか「分類」とか、興味のある分野が目白押しで、楽しかった。

扱う生物種が今後も増え続けるなら、最終的には、計算機にお願いすることになるのだろう。コンピューターさんが「ヒトの脳ミソの能力なら、過去の経緯も踏まえて、この分類がオススメですよ」とかいって差し出してきた分類を、だまって受け入れるしかないと思う。計算機のパターン認識はその程度に進歩するだろうし、人間の能力はそんなには変わらないのだろう。

以下、断片的に引用。パターン認識がてできたところでは、ちょっとした SF みたいにワクワクした。

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ところが、博物学者の活動が海外にまで拡大され、探検博物学が開花する十七世紀になると、コレクションのサイズが急激に膨張し、人の認知的上限を越えてしまう事態になったと彼は言う。個々のアイテムの個数でいえば「五〇〇」がわれわれ人間が耐えうる認知的リミットであるとされる。この限界に達するまでの博物学は、直感的な民族分類の段階にとどまっていた。
しかし、その認知的上限の向こう側には新たな科学が待っていた。それは「分類の科学」である。(p.275)
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多様な対象物を適切に分類し続けることは、ヒトにとって最節約的に記憶を整理すると同時に、より効率的な帰納的推論を可能にしただろう。そのような認知能力をもつことは、ヒトが自然界の中で生き残る上で有利に作用したにちがいない。(p.285)
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万物を分類すべく生まれてきたわれわれヒトは、実のところ自分自身にビルトインされた「分類思考」の正しい使い方を、誰ひとりとして知らないからである。(p.297)
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代わりに、そこにあるものは「パターン認識」である。多様な対象物を前にしたとき、そこにどのような「パターン」あるいは「種」を見いだすか、どのようなパターン認識がヒトにとってより「自然」であるか。(p.299)
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分類思考の世界 なぜヒトは万物を「種」に分けるのか (講談社現代新書)




系統樹思考の世界

系統樹というのが、何らかの形で歴史を扱うものであって、だから原理的に推論を含まざるをえないものだ、ということが丁寧に書かれていた。良い本。

祖国とは国語

最後の満州の文章が、嫌で嫌で仕方なかった。この人は、自分の故郷を美しいと言うためなら、自分以外の人々が住む土地を平気で醜いと書いてしまうのだ。

以下のくだりは、いいこと書いてると思ったが、全体的には弱者に配慮のない嫌な本だった。

その人の教養とか、それに裏打ちされた情緒の濃淡や型により、大局観や出発点が決まり、そこから結論まで論理で一気に進むということになる。どんな事柄に関しても論理的に正しい議論はゴロゴロある。その中からどれを選ぶか、すなわちどの出発点を選ぶかが決定的で、この選択が教養や情緒でなされるのである。(p.84)

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)

巨大ウイルスと第4のドメイン

こういう野心的な部分のある科学の本が好きなのだ、と実感した。疲れているのに読み切ってしまった。

でもこの本で一番印象に残ったのは、この文章。さらりと流すなんて、ずるい。

ミミウイルスの仲間として新たに見つかった「ママウイルス」(Mamavirus)というウイルスがいる。(p.41)

マネジメント信仰が会社を滅ぼす

会社の先輩に貸してもらった本。今ちょうどマネジメントに関連する仕事をしていて、ちょうど仕事がしんどいと感じてる真っ最中なので、とても「楽しく」読んでしまった。正直、客観的に読めた自信はない。

以下の文は、自戒の意味で、覚えておきたい。

そんなことぐらい誰もが気がついている。それでも「マネジメント理論や手法によって会社や社員を変えられる」という思い込みを持ち、マネジメント本を読み漁るのは、「自分はマネジメントの勉強をすることによって、この厳しい状況を何とかしようと努力している」という自己満足を得たいからであろう。(p.149)

コレモ日本語アルカ?

日本語側と中国語側の両方から丁寧に分析されている。

日本語側は、宮沢賢治夢野久作にはじまり、後半には、サイボーグ 009、ゼンジー北京、らんま 1/2、銀魂ヘタリアまで目白押しで楽しく読めた。

中国語側は(中国語の知識がないので)読むのがしんどかったけど、最後まで読んで、中国語側の視点も不可欠な構成だと分かり、納得。良い本です。

あとがきから二箇所引用。

フィクションに登場する〈アルヨことば〉の使い手は、尊敬すべき崇高な人格者ではない。しかし一方で、特に私の子供時代に出会った戦後の作品では、明るく朗らかで前向きな、魅力的な人格も同時に表現されていたはずである。本書執筆の動機には、こういった子供時代からの〈アルヨことば〉への愛惜の念があった。(p.215)

本書に記してきたことを踏まえるなら、もはや政治的な文脈への配慮なしに軽々に〈アルヨことば〉を用いたり論じたりすることは慎まれるべきである。本書に記したことばの背後にある歴史についての知識や、またそれに伴う配慮が、新たな日本の常識となることを願ってやまない。その一方で、子供のころから好きだった〈アルヨことば〉の歴史をきっちりと描き出し、ある意味で永遠に供養したいという願いもまた本書の執筆を強く支えていたのである。多くの読書子に筆者の思いが伝わればこれに勝る喜びはない。(p.216)

ビブリア古書堂の事件手帖

妙に流行っちゃって買いそびれていたビブリア古書堂、古本屋で百円になってたのを良いきっかけと、購入。

こんなに売れた本を今さら「面白かった」と書いても仕方ないのだけど、ええと、面白かった。でも続編買うかと言われると、ちょっと悩んでる。いつからだろう、ベストセラーを買えなくなったのは。

物語とは直接関係ないけど、以下の台詞は良いと思う。

「あの話って願望全開だよな。こんな女いねえよって最初は思ったけど、願望だって分かって書いてる。それがはっきりしてるから、いい話なんだと思う……(略)」(p.149)

粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う

何か本を読まなくては、という強迫観念みたいなものを感じてしまい、駅の本屋で無理矢理選んで買った。

どことなく雑な文章だったけど、シンプルな信念が感じられて、気持ちよく読めた。

「単細胞」といえば「単純で有効な戦略でうまくいくこと」という意味に使えばよいのです。なんといったって、これは事実ですから!(p.102)

次版の「広辞苑」には、「転じて考えの単純な人」という意味に加えて、「さらに転じて、洗練された単純さで複雑な状況を切り抜ける人。またはその思考方法」とするのが妥当です。ですよね?(p.104)

長らく共同研究をしてきたKさんは、このことを「目の前に答えはある。それが何の答えなのかがわからない。適切な問いを探し出すことが我々の問いである」と表現しました。(p.165)

生き物たるもの運動法則で割り切れるような単純なものではない、と反論もあるでしょう。しかしそれには、単純な運動法則がもたらす可能性こそ、実はそんなに単純でもないと反論を返しましょう。(p.187)

粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う (文春新書)

粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う (文春新書)

バーにかかってきた電話

思ってたより爽快感があって、わりと気持ちよく読めた。

三か月くらい何も読んでなくて「とにかく読もう、読みさえすればきっと満足だ」という心構えで読み進めたのも、たぶん良かったのだと思う。

バーにかかってきた電話 (ハヤカワ文庫JA)

バーにかかってきた電話 (ハヤカワ文庫JA)

ねずみに支配された島

科学を忘れず物語(ノンフィクション)を語る、とても良い本。ただ「人間こそが最悪の外来種だ」とは書いてなかった。そこまでは書いてなかった。意図して書かなかったんだろうな。ここまで書ける人が気付かないはずないもんな。

ねずみに支配された島

ねずみに支配された島

冷えと肩こり 身体感覚の考古学

後半に向かうにつれ、少しずつ「文化論」になっちゃって、ちょっとしんどかった。第1章の「冷え性の発見」は、とても楽しかった。

冷えと肩こり 身体感覚の考古学 (講談社選書メチエ)

冷えと肩こり 身体感覚の考古学 (講談社選書メチエ)

SF 的な宇宙で安全に暮らすっていうこと

これは新鮮な驚きでした。父親のつまんない失敗を何の救いもなく失敗と言い放って、それでもなお未来に向かおうとするエンディングが、とても良かった。

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

聞く力

なんと言うか、その、エッセイだった。いや、作者はエッセイストだから、エッセイで当たり前なんだけど。おいらが油断してただけなんだけど。

聞く力―心をひらく35のヒント (文春新書)

聞く力―心をひらく35のヒント (文春新書)