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「空気」の研究

いつかもう一度 図書館の本 好きな作家

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

少し極論という気もしたが、勉強になった。宗教とか民族性とかの意味を少し理解できたと思うし、歴史の勉強も必要だと理解した。

私が「遺影デモ」に関心をもったのは、これをもしイスラム圏、その中でも特に「影像禁止」が徹底しているサウジアラビアで行なったら、どういう結果になるであろうと考えたからである。影像禁止とか偶像禁止とかいうイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の一部にある考え方の基本は「物質はあくまでも物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じてこれから影響をうけたり、それに応対したり、礼拝したりすることは、被造物に支配されてこれに従属することであるから、創造主を冒瀆する瀆神罪だ」という考え方が基本になっている。(p.67)

偶像禁止には治安を維持するうえで実用上の利点がある、ということか。偶像禁止の意義を初めて理解した。

偶像化できる対象は何も像や人間だけではない。(略)「言葉狩り」という新しい不敬罪が現実に実施されていることは、それを、裏返して証明しているといってよい。というのは、その場合、その言葉のもつ意味内容よりも、その言葉を臨在感的に把握しこれを偶像化することによって生ずる空気が問題とされているからである。(p.73〜74)

言葉狩り」と思うと理解できる。なるほど。

ル・コルビュジエが、日本の「間(けん)」という尺度、いわば生活空間から逆に算出した「人間的尺度」を賛美したそうだが(略)(p.115)

そう言われれば確かにそうだ。尺貫法ってそういう尺度だったのか。

それが典型的に現れたのが林彪事件で、同事件を「北京は日本の新聞のために隠し、日本の新聞は北京のために隠す、直きことその中にあり」で、両者の間にこの虚構――いやこれだけでなく多くの虚構――を共にすることによって真実の関係が樹立される。報道という面でこれを問題にされたときの朝日の広岡社長が言った「これから友好関係を樹立しようという相手に対して、一切の事実を報道することは……」といった意味の言葉、そしてその言葉が当然のこととして了解される社会は、おそらく、今までのべて来た日本の無意識の通常性を、数語にちぢめて表現している。(p.164)

林彪(りんぴょう)事件のことは、実は不勉強で知らなかったのだけど、ちょっと調べた限り日本以外の国にも隠されていたようなので、少し事情が違うのではないかと思う。こういうときは歴史を勉強しておくべきだったと反省する。

その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである(p.172)

上記は第二章にあたる「『水=通常性』の研究」の最後あたり。一周回って理解は深まったが結局元の場所とはびっくり。

しかしその中である種のエリートは、前記の作業をしている。これがしだいに進めば、結局新しき士大夫がすべてを統治して「民はこれに依らしむべし、知らしむべからず」の、儒教的体制へと戻って行くであろう。そして戻って行くことを、心のどこかで人びとは半ば認め出したのではないかと思われる徴候もある。これに対して「自由」はいかなる位置に立ちうるのか。(p.219)

そして第三章(「あとがき」を除けば最終章)の「日本的根本主義について」の最後あたりからも。これまたひとまわりして同じ場所に戻るような論調。でも「知らしむべからず」には戻れないような気がするなあ。

言うまでもないが、元来、何かを追究するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的追究を行なおうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。(p.222)

「あとがき」より。空気を読まないとそもそも研究題目を企画立案できないが、空気を読むと追究しきれないわけで、このあたりのバランスが難しい。

ただ過去において日本は、儒教的道徳体系が、少なくとも精神的体系としては、存在する国であった。人びとは基本的にはこの体系に生き、この体系の中で自己を位置づけていたから、集団がこの体系にそくしている限り、「二人の言」はあり得なかった。しかし集団が「空気」に支配されて、自己の道徳的体系とは相いれぬ決定をしたとき、その人は「その場の空気に動かされず」に自己の内なる体系の定められた場所に自己を位置づけるという形で、一種の「二人の人」であり得た。(p.227)

日本語が難しいけど、つまりここが要点かと思う。こういう「自分の中の二人の人」について、「空気が」とあきらめるのではなく、意識的に解決していく必要があるのだと思う。

p.226 に「ヤハウェの顔は避けることはできない」で小さい「ハ」あり。