実力も運のうち 能力主義は正義か?

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原著のタイトルは「The Tyranny of Merit(能力の専制)」であって、運とか実力とかの話ではないぞ。と自分に言い聞かせながら読んだ。自分の中でのタイトルは「労働の尊厳」にしておこう。そうしよう。

 

いくつか気付きがあった。優秀で正しいとしても信頼がないと議論は成立しないこと。自由経済があまりにシンプルでタフで、改変が難しいこと。「尊厳」なしでは人生が成立しないこと。などなど。

 

読書室と図書館のくだりが印象的だった。まずは読書室について。

 

示唆に富む例の一つが、アメリカで最初の大規模労働組合の一つである労働騎士団が、労働者が公共問題について学べるようにするため、工場内に読書室を設けるよう要求したことである。この要求は、市民としての学びは職場に不可欠だと考える共和主義の伝統から生まれた。(p.276)

 

次は図書館。「彼」は『米國史』のジェームス・トラスロー・アダムス。「一般閲覧室〜」以降は引用の引用(つまり『米国史』からの引用)。

 

具体例として彼が挙げているのがアメリカ議会図書館だ。それは「民主主義が自らの力で達成できることの象徴」であり、職業や地位を問わず、あらゆるアメリカ人を引きつける公共の学びの場である。

一般閲覧室を見下ろす。この部屋だけで一万冊の本が収められ、それらは請求する必要もなく、自由に読むことができる。座席は静かに本を読む人たちで埋まっている。老いも若きも、富者も貧者も、黒人も白人も、重役も労働者も、将軍も兵卒も、著名な学者も学童も、みなが、自分たちの民主主義が提供する自分たちの図書館で本を読んでいる。(p.320)

 

あと、以下のところで、なぜか泣きそうになってしまった。「オオサンショウウオ」が良かった。

 

生徒たちが不安げに、このでまかせ小テストも点数がつき、成績に反映されるのですかとたずねると、先生は「そうさ、もちろんだ」と答えたものだ。

そのときは、いっぷう変わっているが愉快な、教室での冗談だと思った。だが、いま振り返ってみると、ファーナム先生は先生なりのやり方で、能力の専制にあらがおうとしていたのだとわかる。生徒たちを選別と競争から引き離し、サンショウウオに目を見張るだけの余裕を与えてやろうとしたのだ。(p.280)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本訳書では(p.332)

このあたりうまく切り取りたい。