- 作者: 藤原正彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/11
- メディア: 新書
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だいたいこういう本は信用できないと眉唾で読む。眉唾なら読むなよと言われそうだが、読まないと眉唾とも言えないので、そこは仕方ない。
経済理論としてこの主義に論理が通っていることは認めます。しかしそれはよい経済理論ではないと思います。論理的に正しいことと善悪は別次元のことです。少なくともこの主義が社会を不安定にすることは明らかと思います。(p.29)
これは納得。論理的かどうかと、善悪とは別で考える必要がある。ただ「善悪は論理と関係ないところで決まる」という主張なのだとしたら、賛成できない。以降、作者は巧みに明言をさけるが、多くの読者は「論理と関係なく善悪を判断してよい」と読み取ったのではないだろうか。作者もそれを意識して意図的に明言を避けているのでは、と疑いたくなる。ちょっとずるいと思う。
岡潔(一九〇一〜一九七八)という大数学者がいます。奈良女子大の教授をしていて、『春宵住環』という随筆集でも有名な数学の天才です。(略)
例えばフランス留学から帰ってきた直後には、「自分の研究の方向は分かった。そのためには、まずは蕉風(芭蕉一派)の俳諧を勉強しなければならない」と、芭蕉の研究に一生懸命励んだ。数学の独創には情緒が必要と考えたのです。(p.140)
作者が何を言いたいのか、今ひとつつかみきれないが、とりあえず岡潔という人物には興味あり。
私は高校の頃、英語に圧倒的な自信があって、各種の模擬試験でもしばしば一番とか二番を取っていました。「俺が日本で一番だ」と信じていました。(p.143)
むむ。自慢のたぐいを公衆の面前で言い放つような人は、個人的には信用したくない。「自分は優秀」と堂々と言う人の多くは、他人に対して詭弁を使いこなす。例えば以下。
真の国際人には外国語は関係ない。例えば明治初年の頃、多くの日本人が海外に留学しました。彼らの殆どが下級武士の息子でした。福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、岡倉天心と、みな下級武士の息子です。
彼らの多くは、欧米に出向いていって、賞賛を受けて帰って来る。海を渡る前、おそらく彼らは、西欧のエチケットはほとんど知らなかったはずです。レディー・ファーストやフォークとナイフの使い方もよく知らないし、シェイクスピアやディケンズも読んでいない。世界史も世界地理もよく知らなかった。福沢、新渡戸、内村、岡倉などは例外ですが、多くは肝心の英語さえままならなかったはずです。だけど尊敬されて帰って来た。(p.147)
下級武士の息子として、福沢、新渡戸、内村、岡倉の四人を挙げたうえで、直後の段落で「福沢、新渡戸、内村、岡倉などは例外ですが」と、例示した全員が実は例外だと言う。ざっと読めば文意は分かるが、ちゃんと読むともう何が言いたいのか訳がわからない。勘弁してほしい。
作者の主張する「国家の品格」には多くの部分で共感するが、おおよそすべての場面で、作者には「品格」がないと感じた。たぶん品格のある人物は、品格について語ったりはしないのだと思う。つまり仕方がないのだと思う。