日本語雑記帳

日本語雑記帳 (岩波新書)

日本語雑記帳 (岩波新書)

端々に誠実さが感じられ安心して読めた。良書。

鼻濁音の美しさに関して、孫引き。

ガ行鼻音を持っている人たちは、鼻濁音のほうが美しいと感ずるらしいのですが、ところが、われわれの方は実にいやなんです。何だか甘ったれたような、はっきりしないという感じを持つのですよ。私、小学校のころ、東京から来た子が鼻濁音を盛んに使っているのを聞いて、何だ、あいつは、甘ったれた言葉を使って、感じが悪い、と感じたことがありましたよ。(座談会「新しい標準語教育」『教育技術・中学国語』一九五五年〈昭和三〇〉六月)(p.111)

大いに賛成。人は誰でも自分の言葉を無条件に美しいと感じてよいと思う。

それに比べると、「書けなくても、読めればいい」と「鬱」をねじこむとは、なんとも、身も蓋もない、投げやりな感じである。「書いて読んでもらう」のが文字であろう。世界広しといえども、「読めても書けない文字」を公の立場で、国民に勧める国があろうとは思われないが……。(p.120)

開き直って「世界初の『書けない文字』」と自慢してみるとか、悪くないかも(笑)。

「相撲・雪崩・撫子・五月雨・不如帰・勿忘草」など、熟字訓には、情緒豊かなものが多いが、一字一字の音訓から読みが決まっていく方向で、合理化していくべきではなかろうか。(p.122)

「合理化」を理由に「情緒」を捨てるのは全く賛成できない。日本語ならではの特徴を十分に研究したうえで、守るべき最低のラインを引いたうえでの合理化でないと、なし崩しになってしまう。戦後の混乱時、もしかしたらカナモジやローマ字が正式な日本語になったかもしれないところ、曲りなりにも漢字が残されて、本当に幸せに感じる。熟字訓のない日本語なんて嫌だ。

一九三八年(昭和一三)、作家の山本有三氏が、『戦争と二人の婦人』(岩波書店)の「あとがき」で、「振り仮名は、文明国の言語にふさわしからず」とする「振り仮名廃止論」を提唱した。(p.127)

この「あとがき」読んでみたい。

この教科書は、一九四四年(昭和一九)に、文部省が初めて作った官製の文法書だが、当時でも、「寒うゴザイマス、新しゅうゴザイマス、おいしゅうゴザイマス」などという言い方は、「おめでとうゴザイマス、ありがとうゴザイマス」は別として、男子生徒には全く縁遠いものだった。(p.176)

こういう当時の感覚(「全く縁遠い」など)が書かれた本は貴重と思う。小説や漫画からは読み取りきれない部分があると思う。

他にも、遊星・惑星の話(p.40)、シャベル・スコップの話(p.90)、しあさって・やのあさっての話(p.94)、「トても、カクても」の話(p.187)、成績の甲乙丙が「シャミセン・オシドリ・ヘイタイサン」だった件(p.191)、呼称「OL」投票が実は 7 位の話(p.208)、「なのめならず」・「なのめに」の話(p.211)、「ゼロではない」の話(p.220)、などなど、後でちょっと読み直したくなるようなネタがいっぱい。