国語審議会 迷走の60年

国語審議会─迷走の60年 (講談社現代新書)

国語審議会─迷走の60年 (講談社現代新書)

面白かった。おそらく喋りが上手い人なのだろう、こんな内容だけどするりと読めた(その分、引用しようとすると難しいのだと後で気づく)。参考文献がいちいち興味深く、次の本を探すときに重宝しそう。

ことばは伝統である、と唱えてもよい。「母語としての国語」とはその意味である。しかし、ことばは趣味の問題でもある。ことばが多様であることは、けっして「乱れ」ではない。ことばが通じないことは、けっして恐怖ではない。(p.22)

なるほど「多様」と断言してしまえば「乱れ」ではなくなるのか。明らかに詭弁だけど一理ある。ただ、とりあえず、言葉が通じないこを「恐怖ではない」と言いきる勇気は、自分にはない。ほんとに怖くないのかな。

「目安」であるというように、規制の度合いをゆるくした点が特徴的である。戦前をひきついだ統制路線が修正された瞬間であった。小さいが重要な変化である。(p.141)

常用漢字で規制緩和されたことを「重要な変化」だと、大きな転換点のように書く本が多いのだけど、実態と違うような気がする。現実社会は常用漢字の前後で緩やかに変化を続けていて、常用漢字があろうがなかろうが、大勢に変化はなかったという気がする。常用漢字は(他の多くの国語施策と同様に)時代の空気を追認しただけに過ぎないと思うのだけど、ちょっと卑屈だろうか。

文化審議会の答申「これからの時代に求められる国語力について」に先立って、中央教育審議会は二〇〇三年三月二十日に、「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」を答申している。
文化審議会との委員の重複は一名だけだが、答申の論調は類似している。(p.194)

(本の前半で組織メンバーに重複があることを問題視していたけど)重複一名でも駄目な時は駄目なんだ、と目からうろこ。

逆にいえば、使用者の意識が変わらないかぎり、国語は無条件にかつ無批判に愛されつづけるのである。(p.199)

使用者に(つまり日本語について専門的に学んだわけではない人たちに)意識変革を求めるのは、現実問題として無茶で非現実的な要望だと思うのだけど、どうなんだろう。無茶と知りつつ敢えて書いてるのかな。

「ことばは、政策的に管理されてはならない」と序章で述べた。矛盾するようだが、そうならいようにする審議会こそが必要なのではないか。学識経験者で構成される審議会であるならば、時代の要請としての政治的介入を肯定するのではなく、時代に抗する機関であってほしいのであるが、これが夢想にすぎないことは私自身よくわかっている。(p.275)

最後の最後に出てきた文章。「夢想にすぎない」とは、これはまた上手い具合に逃げやがったなあ、と妙に感心してしまった。

以下は本筋とは関係ないけど個人的に興味あるところ。

たとえば、筆者の勤務先大学の講義の受講学生を対象に簡単なアンケートをとってみた(二〇〇七年四月実施)。回答者八十七名のうち、国語審議会について名前ぐらいは聞いたことのあるのが十六名(一八・四パーセント)、活動について知っているのが三名(三・四パーセント)で、残り六十八名(七八・二パーセント)がまったく知らなかった。二割強も認知度がある、というほうにおどろくべきなのかもしれないが、そう認知度が高いわけではない。(p.9)

二割強も認知度があるのは、たしかにすごいと驚いた。

それ以降はあらたに設置された文化審議会の国語分科会として文部科学大臣の諮問機関となっている(先の学生アンケートでは九割がまったくこの機関を認知していなかった)。(p.9)

すみません、認知していませんでした。次は孫引きで「国語問題と民族の将来」(1961年 舟橋聖一)から。

南方諸国を攻略した日本の軍部が、ジャワ、スマトラ方面の原住民に、日本語を教えて、宣撫の効をあげたいが、日本の国語は難しくって、これを普及させるに適しない。もっと簡便にして、原住民の覚えいいものにしたいから、そういう国語をセット風に、或いは弁当箱風に作ってほしい、という要請が、情報局を通して、日本文学報国会に求められた。〔……〕私は、陸海軍の提案に反対し、日本語を簡便にするのは、一見、日本精神を南方諸国へ普及させるのに、卓効があるようだが、そうではない。人間はどうしても、安易に就きやすいものだから、そういう単純化(シンプリフィケーション)が行われると、自国でも、それを使うことになる。南方諸国の宣撫のための目安が、そのまま、自国の標準になりかねない。(p.16)

素晴らしい卓見。

舟橋のこの一文は初出雑誌では引用のように「新字新かな」になっているが、本に収録された際(『國語の傳統』一九六五年)には「歴史的かなづかい」で組まれている。(p.17)

「組まれている」という表現が素敵。でも、「文字を組む」なんて、もはや「チャンネルをまわす」「電話番号をダイヤルする」などと同様の、実態と乖離した用語なんだろうなあ。

(略)土岐の議論はきわめて官僚的である。上からの政策指導をよしとし、みなが「自主的に」したがっているのだからよいのだ、という土岐がこの後第五期まで会長をつとめることになる国語審議会は波乱ぶくみとなる。(略)。(p.89)

「官僚的」という語の、非常にわかりやすい解説だと思った。秀逸だ。

(略)この昭和の大合併を、国語審議会では当用漢字普及のひとつの契機ととらえた。
「町村合併促進法」が制定された一九五三年十月になされた県議「町村の合併によって新しくつけられる地名の書き表わし方について」には以下のようにある。(p.92)

後で詳細を調べてみたい。どの程度まで具体的な指示があったのかに興味あり。

なお、多少時代は下るが、いわゆる昭和の大合併で登場した地名に用いられている漢字が常用漢字(一九八一年制定)でどの程度カバーできているか、という調査をした論文がある。(略)常用漢字がカバーするのは、県名が八四・九パーセント、市名が七九・三パーセント、町名が七五・〇パーセント、村名が八二・〇パーセントとなっている(草薙裕「常用漢字と地名」二〇〇〇年)。この数値の評価はむずかしいが、現に、国語審議会の建議とは関係のないところに地名があることだけは確かである。(p.97)

変化の程度が示されず結果数値だけなので、評価が難しいというより評価不能な数値だけど、とりあえずデータとして重要。

さらには、いわゆる四つ仮名(じ・ぢ・ず・づ)の区別については(略)(p.100)

実は「四つ仮名」という言葉を初めて知った。それなりに広い視点で勉強したつもりでもずいぶん偏っているんだろうなあ。

一方、雑誌では、一九四七年一月から五五年七月までの『文藝春秋』の記事を調査したところ、文芸家以外の場合、現代かなづかいで書く割合が一九四八、四九年から急に増え、五五年ごろでは八、九割になっているという。また、別の調査では、一九五四年のある二ヵ月分を対象にしたところ、歴史的かなづかいのページは『文藝春秋』では全体の五割、『中央公論』『改造』『世界』は全体の一、二割という結果になったという。単純にいえば、作家が現代かなづかいを使わない割合が高い、ということになる。(p.103)

こういうデータをちゃんと提示している本って少ないので、嬉しい。と思ってよく見たら、出典は雑誌の覆面座談会とのことで、なんだかいまひとつ信用できない(「言語生活」の一九五六年十二月号の「言語改革は何をもたらしたか」)。

あるいは、国立国語研究所の所員は一九六四年に以下のように述べる。その前年から作家谷崎潤一郎が三度目の『源氏物語』の口語訳にとりくみだしたが、それが現代かなづかいで渋々ながらおこなわざるをえないようだ、という新聞記事をふまえ、二度目の口語訳では歴史的かなづかいであった谷崎ですらもそれを用いざるをえなくなったように、「一片の法令にすぎなかった『現代かなづかい』が、すでに社会的なものになり、個人の主観や好みをこえた、かなづかいの規範としてはたらくにいたっていることを示している」と判断している(鈴木重幸「現代かなづかいの意義」一九六四年)。(p.137)

「渋々ながら」のあたりを素直に信じてよいのかわからないけど、そういう時代の節目と理解してよいのだと思う。

視覚障害のある人たちが置かれた社会的立場への理解がどれほど稲垣にあったかはわからないし、みずからの主張に都合のいいときにだけとりあげるというのは問題ではあるが、こうした「障害としての漢字」という観点は、現在でも有効である。
漢字が音声をおおいかくす側面がある以上、どれだけテクノロジーが進んで漢字がコンピュータに載るようになっても、音の指定がないかぎり伝達上の障害はなくならない。(p.263)

音の指定がなくても、文脈からほぼ正確に音を判断できるようになる時代が来ると信じてます。「実用レベル」であれば、近い将来実現されると思う。

ここで問題が生じる。国語審議会の定めた常用漢字表にはない漢字にコードをあたえ字体を決めるときに、当用漢字字体表や常用漢字字体表でなされた簡略化を、字体表外の漢字にまでおよぼしていったのである。(p.264)

表外漢字の簡略化を進めたのは新聞社だったような気がするのだけど、記憶違いかな。後で調べたい。

あと、これは本論とは本当に関係ないけど、表現として気になったところを抜き書きしてみる。最初は「軽くいなしてる感じが格好いいなあ」程度に思ってたのだけど、よくよく考えると失礼で挑発的な表現でもある。こういう表現が対立を深めてしまうのだろうなと思う。以下、太字部分が気になった表現(気付いたところだけなので他にも探せばあると思う)。

大岡の文章は具体的な名前をあげて罵ったもので、あまり引用にはふさわしくない。(p.127)

こうした身も蓋もない議論をながながとするつもりはない。(p.144)

さらに笑わせるのは、「国際化」といいつつ、答申で提起されたのは、ローマ字表記での「姓-名」順の推奨なのだ。(p.181)

ここで、「祖国愛」が臆面もなく答申にもりこまれたことを考えてみたい。(p.190)

(略)五つの目標のうちの「新しい『公共』を想像し、二一世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」というおどろおどろしい項目は、以下のとおり。(p.244)