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科学教の迷信

科学教の迷信

科学教の迷信

ネオダーウィニズムを「イデオロギー」にすぎないと批判する第一章「反遺伝子論序説」が程よく緻密で厳しくてとても興味を引かれたが、第二章、第三章はほとんど屁理屈程度の浅い理論で、落差に驚いた。そんなこともあるんだ。

あらためて感じたのは、自分が漢字や国語と同じ程度に、進化論も大好きで、冷静ではいられないということ。

メンデリズムと合体する以前のダーウィニズムは、いかなるレベルにおいても実念論的な構成をとっていなかった。ダーウィンは、種はおろか、形質や変異に関しても何ら実念論的な基礎づけを行うことなく進化論を構築した。(略)
ダーウィンは変異の原因や根拠については言及しなかった。変異の原因として何らかの同一性を措定しなかった、と言ってもよい。(略)ダーウィンの進化論が実念論的な構成をとらなかった、ということは、それが現代科学として体をなしていなかったことを意味する。(p.53)

そう言われてみると確かに、進化論ではAからBへと徐々に変化することになっていて、そうするとどこまでがAでどこからがBなのか、科学的視点では判別できないことになる。なるほど。

同一性を遺伝子レベルに担保した、すなわち遺伝子実念論となったダーウィニズム(ネオダーウィニズム)は、進化論を席巻するようになる。記号化できる遺伝子という同一性(実体)の増減というお話は、数量化・数式化しやすく、論文生産力を有するからである。(p.54)

論文生産力、という視点は秀逸と思う。もうほとんどイデオロギーに近い。

生物学者でない読者は奇異に感ずるかも知れないが、現代ネオダーウィニズムの教義は一度たりとも実証されていない。遺伝子(DNA)上に生ずる突然変異が、自然選択または偶然により集団中に拡散して進化が起きると、ネオダーウィニズムは主張する。しかし、遺伝子工学の発展により世界中で日夜、遺伝子組み換え実験が行われているにもかかわらず、いまだに種差を越えるような進化は観察されてはいない。なぜ多くの生物学者は、実証されていない理論にリアリティーを感ずることができるのだろう。(p.83)

まあ、何といいますか、その、ネオダーウィニズムが楽しいから、だと思う。やってて楽しければ、リアリティーなんて二の次だと思う。仮面ライダーについて語るようなものだ。

村上陽一郎『科学者とは何か』(新潮選書)は、科学者以外の人々にはあまり知られていない科学者たちの生態と病理を暴いた好著である。村上によれば、十九世紀に科学者という名の知識職能集団が生まれて以来、科学は一貫して「無責任態勢」を貫いてきた。科学者は研究成果は生み出すけれども、生み出された成果の社会的影響については、一切責任を負わないのだ。(p.92)

面白い視点と思うが、逆の側面もある。たとえば「責任は俺がとってやるから思い切りやってこい」みたいなところが、科学にはあって、それが科学を「進歩」させてきたのは間違いないと思う。「失敗もひとつの成果だ」というような。

理系の学校秀才は、リアリティーを感じられない理論でも、ただ信じるという営為に慣れている。いちいち疑っていては落ちこぼれになってしまうからである。彼らにとってみれば、ホーキングの理論も麻原彰晃の教義も選ぶところがなかったのかも知れない。あるいは少なくとも、科学理論は生きる意味を教えてくれないが、麻原の教義は生きる意味を教えてくれるだけ、リアリティーがあったのかも知れない。(p.108)

これにはひざを打った。一般論として優等生というのは転びやすい存在なのかも知れない。

我々の社会は、年間一万人ほどの交通事故死者を当然のこととして組み込んでいるが(実際、交通事故死者を前提として、脳死者からの臓器移植は成立している)、交通事故死がない社会から見れば、年間一万人もの人を自動車に人身御供として捧げている社会は、どんなとんでもない社会に見えるだろうか。(p.133)

同感。とんでもないと思うけど抜け出せない。

しかしよく考えてみよう。たとえば我々は春になると木々が芽吹き、蝶が舞うのを予測できる。未来の出来事は決定論的に決まらないにもかかわらず、予測は可能なのである。実は予測は決定論によって裏付けられているのではなく、我々のパタン認識にその根拠を持っているのである。
世界に同じものはひとつとしてなく、同じ現象は厳密には二度と起きない。それにもかかわらず、見たこともないものの名前を言いあてたり、見たこともない現象を過去のある現象と同じ現象であると言えるのは、異なるものを同じだと認識する我々の認知パタンにあるのだ。(略)
旧著『構想主義科学論の冒険』(毎日新聞社)の中で強調したように、科学は同一性の追求の歴史である。しかしいかなる同一性もついには人間が認識するものであるならば、科学が追究しようとした客観は、結局のところ、主観と分離することは不可能なのである。それを無理に分離しようとした、あるいは分離できるはずだと錯認したところに、科学という大パラダイムの特徴と限界と病理があったに違いない。(p.175)

科学そのもののパラダイムをシフトさせようとする野心が素敵だ。良いアイデアだと思うけど、客観を捨てるとさすがに理論が構築できないような気がするけど、そのあたりどうなのだろう。