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日本人はなぜ無宗教なのか

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

さほど否定的でもなく日本人の無宗教について教えてくれる。「創唱宗教」と「自然宗教」を軸にした説明が分かりやすい。差し迫ってがっつり勉強する理由もなく興味本位で読みはじめたので、ほどよく面白かった。

たぶん、「村社会」の持つ「平衡化」の仕組み(p.144)は「村社会」をひとつの脳であるかのように機能させるのだと思う。個人主義の国の人間から見ると、「村社会」という多細胞生物は異様な生き物なのだろうなと思う。

あと、例によって枝葉引用。井原西鶴について。なんといいますか、その、現代風の人だったみたいですね。

彼の人生観の要点は、ほぼ二つに要約されよう。第一は、それまでの刹那的、無計画的な享楽を否定して計画的に人生を楽しむことを主張したこと。第二は、「浮き世」での実在感覚を数量に求めたこと、である。(p.042)

人は十三歳までは、わきまえもないのでしようがないが、それから二四、五歳までの間は、みっちりと親の指図を受けねばならない。そしてそのあとは、ひたすら稼ぎに稼いで、一生暮らしてゆけるだけの家産を築き、四五になって「遊楽」の生活に入るのが人生の目的なのだ、と。
そのためには、健康に気を配り、信用を得るために努力もしなければならない、また神仏もあがめよ、とこまごまと注意をうながしている。(p.042)

西鶴の人生論の第二の特色は、世間を生きてゆく上で実感されるのは、数字で示されているものに限るという点にある。(略)
たとえば、西鶴は、妻に先立たれたとき、その初七日に追善のために一人で一日に四千の俳句を詠んだ。(略)
また、彼の代表作『好色一代男』でも、主人公がちぎった女性の数を三七四二人、男性が七二五人と冒頭に記している。「性」も数量化によって実感されるようになったということだろう。(p.043)

以下の文章は、特に理由はわかならいけど、納得感あり。

そこでは、仏教は高度な哲学体系をもった宗教というよりも、最新の呪術の体系として受容されたといってよい。(p.053)

心の病気に関する以下の文章(いずれも孫引き)にも、納得。

昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、実は本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧にして且つ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。(『定本 柳田国男集』第四巻、八六頁。表記を一部変えた)(p.142)

北陸処々の海岸地方では、村の白痴を大事にする風習が近い頃まであった……つまりは人間はそう無意味に、馬鹿になるものでないように思っていたのである。(『定本 柳田国男集』第七巻、二七七頁。表記を一部変えた)(p.143)

全然関係ないけど、途中で森有礼が出てきてびっくりした(p.089)。国語問題の人、という先入観があったけど、よく考えると普通の政治家、外交官だった。