- 作者: イ・ヨンスク
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/02/17
- メディア: 文庫
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
面白かった。今まで国語国字は正字正仮名の側からしか見たことがなかったのでとても新鮮で理解も深まった。
言語の本体はあくまでもオトであるという近代言語学の認識からすれば、たしかに文字は言語にとってたんなる外皮にすぎない。(略)しかしそれにもかかわらず、どのような文字表記を採用するのかの問題に、どうして人々はあれほど情熱をかたむけることができるのだろうか。(p.28)
おっしゃるとおり、不思議なものです。
大槻によれば、「英国の国語」にはその文法にまで諸外国語の要素が浸透しており、「其国語の成立に至りては、独立国の体面に、耻かはしきもの」になっている。それにたいして日本では、「千有余年来、朝鮮語、漢語、梵語、洋語、等の混入」があったとはいえ、それらは名詞のみに限られ、文法組織をつくる「本国の語格語脈」はいささかも破られてはいない。そのことは「日本国語」の比類なき卓越性のあかしなのである。(p.99)
そう言われると確かに名詞ばかりのように思う。気づいてなかった。こういうことって学校で教えると良いのではないかと思う。
近代日本の国語学にとっても国語政策にとっても、「国語」にどのようにして統一性をあたえるかは、一つの重大な課題であった。したがって、日本語には確固とした統一性と自立性が見いだせないという森有礼の悲痛な認識は、近代日本の言語意識がたえず否定しつづけなければならない悪夢だったのである。(p.258)
この↑部分、この本の良い要約と思う。
ちなみに、韓国においてもまた「ソウル中流社会の言語」が、いまだに韓国語標準語の規定である。(p.410 注より)
知らなかった。いま調べてみたらソウルの言葉はやや特殊で標準語としてちょっと問題あるらしい。どの国でも難しいのですね。
内容と関係ないけど、ときどき以下のような素敵な表現があって、読んでいて嬉しい。
ここでおこなわれた論理の飛躍は、科学者としての上田が保つべきであるつつしみを軽々と飛び越えている(p.150)
それは、たとえていえば、事故の現場を一人で見てしまった子どもが、耳を傾けようとしない大人たちに何回も同じことをくりかえし、説き伏せようとして手ごたえもないままに苛立っているそんな様子に似ている。(p.271)