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注文の多い料理店

いつかもう一度 好きな作家 図書館の本

注文の多い料理店 (新潮文庫)

注文の多い料理店 (新潮文庫)

ここに書くときに装丁が変わってると別の本みたいで戸惑う。できれば装丁変えないで欲しいが商売だから仕方ないか。

宮澤賢治は小学生のころから何度か読もうとして何度も意味がわからず挫折した。今回も最初の三作は何のことだかよく分からず気力だけで読んでいたが、「烏の北斗七星」でふと腑に落ちた。そうなのか、宮澤賢治ってこういう人だったのか。どちらも悪いしどちらも悪くない、だから誰か一人じゃなくてみんなが前向きに暮さなきゃいけないんだけど、でもだからといって無理して良くしようとしちゃ駄目、といった物語たち。

言葉を文字を、それこそ一字一句を、とても大事に扱っていると感じたので、ぜひこれは旧字旧仮名のまま読みたいと思ったが、どこかにそういう全集とかないだろうか。

ただ呉れ呉れも云って置きますが狐小学校があるといってもそれはみんな私の頭の中にあったと云うので決して偽(うそ)ではないのです。偽でない証拠にはちゃんと私がそれを云っているのです。もしみなさんがこれを聞いてその通り考えれば狐小学校はまたあなたにもあるのです。私は時々斯う云う勝手な野原をひとりで勝手にあるきます。けれども斯う云う旅行をするとあとで大へんつかれます。殊にも算術などが大へん下手になるのです。ですから斯う云う旅行のはなしを聞くことはみなさんにも決して差支えありませんがあんまり度々うっかり出かけることはいけません。(p.194「茨海小学校」より)

支離滅裂で、支離滅裂だからこそ説得力がある、という文章に初めて出会った。すべて感性の文才によるものなのか、それとも計算づくなのか。

もちろん狐の洋服ですからずぼんには尻尾を入れる袋もついてあります。(p.199「茨海小学校」より)

この感覚はなかった。確かに洋服を着るなら尻尾はしまうべきだ。

けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では狐(きつね)けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。(p.298「なめとこ山の熊」より)

理不尽をさらりと認めた直後に、「実にしゃくにさわってたまらない」と断言する作者の姿勢に感動した。

「烏の北斗七星」、「水仙月の四日」、「鹿踊りのはじまり」、「ひかりの素足」、「茨海小学校」、「土神ときつね」、「なめとこ山の熊」が心にすっとなじんだ。しばらくして読んだらまた違う側面が見えてくるのだと思う。