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触感をつくる

図書館の本

触感をつくる――《テクタイル》という考え方 (岩波科学ライブラリー)

触感をつくる――《テクタイル》という考え方 (岩波科学ライブラリー)

久しぶりに科学の本を読もうか、でも難解だと疲れるのでちょっと似非っぽいくらいがよいな、という実に不純な動機で選んだ本が、実に面白かった。

触覚は科学的に不明瞭で個人によって感じかたが大きく異なる概念で、逆に言うと感覚的で感情的な概念だと思う。でもこの本で(まだまだ未熟ではあるのだけど)触覚も科学的に解明されつつあることを知り、急に不安になってきた。触覚も科学的に解明されていくと、他人と比較可能になって、個人ごとの感じかたの差も調整(アジャスト)されて、画一的になるのではないか。他人の触覚を想像力でおもんばかるようなことはなくなり、数値化された触覚だけを読み取って、同じ数値に安心したり違う数値を排斥したりするようになってしまうのではないか。

「輝く日の宮」の「風雅」のくだりのときに感じたことも実は同根だと思い当たる。芭蕉の時代はまだ言葉が非論理的で、そのため「風雅」をぴったり説明できる言葉は「風雅」しかなくて、だから説明不能な「風雅」を理解しようと皆必死で考えて、そういう必死な思いが「風雅」を成立させていたのではないか。なのに時代が過ぎ言葉を論理的に操るようになり、「風雅」ということばを論理的に説明できるようになり、辞書にも載せて、そのことで「風雅を理解した」と勘違いし、皆「風雅」のことを本気で考えるのをやめてしまったのだと思う。結果として「風雅」が瓦解してしまったのではないか。

以下、例によって枝葉末節。

ベアフット(裸足)ランニングをご存知でしょうか?(略)この走法の面白いところは、そのコンセプトです。実は、足裏から触感を敏感に感じ取ることで、人は自然と膝や腰に衝撃のかからない走り方になるのです。そのような無意識的なヒトの特性を引き出すことで、身体を過剰に保護するのとは異なる長期的な視点で、怪我を防いでいるのです。(p.10)

過保護の科学的側面と思う。少しずつだけど科学的視点はいろんな局面に根を張りつつあるんだなあ。

主観的な体験を論理的に説明しようとすればするほど、実態からどんどんかけ離れてしまいます。そこで彼らは風合いを誰にでも伝えられるよう、言葉での説明に加えて、風合い評価標準、いわゆる「風合いの見本帳」を作成しました。(p.17)

見本ってすごい。科学とは異なる視点から客観性を保証してくれる。そうして確立された客観性が最終的に科学を支える。その結びつきがすごい。

一つの際立った例は、名古屋工業大学の佐野明人さんの研究グループによって開発された触覚コンタクトレンズです。この小さなデバイスは、通常ではほとんど気づくことができないわずかな表面のデコボコを、テコ」の原理で増幅して指先に伝える素子です。視覚で言う、拡大レンズに相当するデバイスです。(p.69)

やってることは虫眼鏡と同列で、仕組みや精度のことを考えると虫眼鏡よりはるかに低レベルとも言えるのだけど、なんだか妙に近未来的なデバイスと感じる。近未来ってなんだろう。