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漢字百話

漢字百話 (中公文庫BIBLIO)

漢字百話 (中公文庫BIBLIO)

字源や語源の話が苦手でずっと読まずにいた白川静だけど、知人が「良い本だ」と紹介してくれたので、勇気を出して読んだ。知人に感謝。

読んでわかったのは、甲骨発見以前の字源の本(あるいは甲骨発見以前の本を下敷きにした本)と、甲骨発見後の字源の本とは、全く別物だということ。「説文解字」も実は甲骨発見前の字書だったとは! 甲骨によって字源の学問は、学問としての「精度」を獲得したのだろうと理解。

前半やや退屈した字源のくだりも後半の主張に不可欠なものとわかる。名著と思う。慣れてないので字源の話がうまく頭に入らない。後日あらためて読みなおしたい。

本論とは関係ないが、ふと思いついたので覚書。当用漢字・常用漢字と同時代に JIS が制定されるのだけど、JIS 制定当時の計算機は二千文字程度が限度だった。当用漢字・常用漢字がなければ、こんなにスムーズに JIS が制定され実際に計算機に実装されることはなかったと思う。当時計算機に漢字が実装されてなければ、現代の自由な日本語環境も実現したか怪しい。日本が情報産業から取り残された可能性だってある。完全に結果論だが、当用漢字・常用漢字も、国策としては、悪いことばかりではなかったと思う(もちろん文字文化のみを見たら明らかな後退があったと思うが、人は文字文化だけで生きるわけでないので)。

字形に変化の多いことは、文字としての未成熟や不安定を意味するのではなく、むしろその構造的意味が十分に理解されていることによる、自由な表出とみなされるものである。(p.182)

なるほど。今まで「文字=コード」と捉えていたので、この視点は新鮮。

ひとたび簡略体が作られると、字形はそこから急速に崩れてゆく。簡略体は久しい間の慣用から自然に作られてゆくべきもので、無原則に字形を改めて作るべきではない。(p.188)

シンプルで力強い主張と感じた。でもここだけ引用すると妙に軽薄に見えるのが残念。文脈は大事。

碑刻の字であるから、略体や俗体がむやみに使われているわけではない。概していえば、字形解釈の不安定なものに、異体字が多いという傾向がみられる(p.199)

当用漢字や常用漢字に多くの略字(つまり異体字)が採用されたのは、当時の関係者の字形解釈の知識・理解に限界があった、ということか。そういうことになるのか。

国語には、このような意味での複合語は少ない。国語は多くは「あさひ」「ゆふづつ」のような+(プラス)形式であるが、ここにいう複合語には両者の重なりをもつものが多い。道徳・神仙は類概念の複合で、その相互既定の上に新しい意味を生む。ぜひ・善悪は相対的に両者を並立させているのではなく、その統一としての真なるものを意味する。(p.236)

こういう視点で和語と漢語を見たことはなかった。このくだりの少し前、p.221 あたりから弁証法や形而上学の話があるのだが、よく理解できない。勉強不足を痛感。人生勉強だ。

あの標語的表現の魅力が失われないかぎり、漢字は容易に滅びないのではあるまいか。漢字は原始の文字にちがいないが、しかしこれほどの信号効果を持つ記号が、他にあるであろうか。その字形がどのように変改されたとしても、それは記号学的に、おそらく最先端にある文字であるということができよう(p.239)

こういう特質が漢字にあることは素直に賛同。そういう特質がある限り漢字は滅びないと信ずることにも賛同。でも言語とか文字に対して「最先端」とか言うのは違和感あり。たしか著者は他のところで、言葉に優劣はない、みたいな意味のことを書いてたような気がするのだけど。読み直すときに気にかけてみよう。

ことばにしても文字にしても、それ自身の自律的な生きかた、運動とその法則性とをもっている。(略)現代の文章には、現代の文章の自律的な自己運動に、十分な信頼をかけてよいのである。(p.267)

このくだりには感銘を受けた。私も信頼をかけたいと考える。でも著者はこの直後に「用字表」や「音訓表」を批判する。なぜ何の根拠もなく、政治の動きを「自律的」の外側に置くのだろうか。いや、別に、政治を外側に置くことに反対するのではない。どうして政治が外側なのかを明確に書かず自明のことと考えるのだろう。政治なしでは人々の生活は成り立たないし、そもそも政治なしでは漢字の統一・普及もままならないわけで、そんなに安易に外側と判断できるものでもないと思う。ずっと悩んでいるが私は結論が出せずにいる。

その道理をもっていえば、字遊びのできる文字ほど高等ということになる。遊ぶことを知らぬ字など、字というに価しない字など、字というに価しないものであるかもしれない。(p.275)

主張は賛同。でも、だから高等、という理屈はひどいと思う。だいたい字遊びができない文字なんてないだろうと思う。シンプルな文字にはシンプルな文字にしかない楽しみがある。ロゴデザインとかの楽しみはある程度シンプルな文字のほうが楽しめる。

(新字について) 改めた理由は、形の統一ということであるらしい。すなわち装飾字体という考え方で、正字という観念ではない。
(ずっと中略)
文字としては、本来活字体の正書などあるべきではない。活字は一種の装飾字にすぎないものである。(p.289〜291)

素晴らしい視点だ。今まで勉強した中で一番シンプルで正しい(客観的な意味で正しい)批判と思う。

もしそのような意味的機能がなければ、三千年にわたる通時性と、漢字文化圏と呼ばれる広大な文化空間をもつことは、不可能であったはずである。(p.293)

もちろん主旨には賛成。でも、この場合の「通時性」「文化圏」の定義はどうなっているのだろう。アルファベットだって同じくらいの歴史を持つし、漢字よりはるかに広い地域で利用されている。そんなに自明な話でもないと思うのだけど。このあたりにくると「著者は自明でない話題に関する議論を敢えて避けているのでは」と思えてくる。そんなことないと信じたいので他の本も読んでみよう。

また両者の文字改革の志向が、いずれも漢字の意味体系性の否定から出発していることに、やはり大きな問題がある。事実はその否定というよりも、むしろ漢字の字形学的知識の不足が、これをもたらしたといえよう。(p.301)

これを読んで少し安心した。著者は「彼らが悪意をもって文字改革をしたのではなく、知識不足だったから仕方なかった」と理解していたのだ。ならばやるべきことは政治や国策の批判ではなく、文字教育の推進だろうと思うが、教育活動に傾く人は少ないんですよね……。なんでだろう。

いまの年配の人たちは、総ルビつきの赤本などで、少年のときから多くの文字を自然に学びえたことを、懐かしく思い出すであろう。いまは、旺盛な吸収力をもつ若者たちが、とざされた言語生活のなかで、知ることを拒否されている。(p.303)

大賛成。だけど総ルビって作るのにコストかかるんですよね。特に校正にかかるコストは馬鹿にならない。あ、でも、計算機の処理能力が上がってきたので、そろそろ低コストで総ルビ本が作れるかも。今度考えてみよう。

あと、図版で載ってた「説文解字」の書体が美しいことに、ふと気付くことができた。今までいろんな本で何度も目にしていたのに素通りしていた。こういうのって気付かなければいつまでも気付かないから怖い。