形態学 形づくりにみる動物進化のシナリオ

進化論の本は大抵なんでも楽しく読んでしまうのだけど、この本は別格に面白かった。

振り返れば、比較形態学や比較発生学の歴史は、動物の解剖学的成り立ちや、それが進化する規則性を抽出することを通じて間接的に、胚の進化発生的モジュール構成を感知する試みであったといえよう。イデア論的原型に従って多様化するのではない。発生の機構の中に成立した法則性のゆえに、観察者の認識に原型が生まれてしまっただけの話なのである。(p.152)

ぐるぐる猿と歌う鳥

久しぶりに小説を読んだ。小説を読む気力がある、というのは幸せだ。ミステリーの部分にかなり無理があるけど、こういう「物語」は好きだ。そう思って振り返ると、加納朋子の「物語」は大抵好きだな。

生命のからくり

分子構造などの物理的化学的な説明を踏まえた上で、生命の本質は「情報」だと書かれていて、そのギャップが楽しかった。物理的化学的な内容と、それをそぎ落とした「情報」の、両方を扱った本は少ないので。

生命のからくり (講談社現代新書)

生命のからくり (講談社現代新書)


知られざる日本の恐竜文化

途中、オタク論あたりで、読む本を間違えたかと思ったけど、ここを乗り越えたら後は普通に読めた。クセがある文章で、斜め視点だけど、良い本。

化石が枯渇する、という視点は気付いてなかった。確かに。
もっとも、その前に、物理的に恐竜研究の歴史には一つの区切りがつけられることになるのはたしかだ。地球上の中生代の露頭の総量は限られており、いずれ遅かれ早かれ発掘可能なすべての恐竜化石は完全に掘り尽くされる日がやってくる。これは、石油がいずれ枯渇するのと同様、避けることのできない宿命である。この時を境に、恐竜学とは、過去に発掘されたすべての化石の再解釈を専門とする完全なインドア科学へと変わり、さらには他のあらゆる生命科学と同じく、コンピューター上に構築されていく全地球生命史のシミュレーションの流れに合流していき、最終的に、恐竜学というジャンルを標榜する必然性も失って、科学としての歴史を閉じることになるのである。(p.146)

知られざる日本の恐竜文化 (祥伝社新書)

知られざる日本の恐竜文化 (祥伝社新書)

恐竜 化石記録が示す事実と謎

とても良い本。翼竜や魚竜、首長竜なんかについても、こういう本があると良いのに。

恐竜 化石記録が示す事実と謎 (サイエンス・パレット)

恐竜 化石記録が示す事実と謎 (サイエンス・パレット)


悲劇の発動機「誉」―天才設計者中川良一の苦闘

全体を通じての主張が何なのか読み取れなかった。何かの「伝説」を批判してみたかっただけで、対象は航空エンジンでなくてもよかったのでは、という気がしてならない。……とか言いつつ、「伝説を批判する本」として普通に面白くて、一気に読んじゃったのだけど。

カバー裏の「あおり文句」に「H1 ロケット云々」とあり、どうつながっていくのか楽しみにしてたのだけど、結局最後まで H1 ロケットには触れられてなくて、そこは素直に「詐欺だ」と思った。

悲劇の発動機「誉」―天才設計者中川良一の苦闘

悲劇の発動機「誉」―天才設計者中川良一の苦闘


銀河ヒッチハイクガイド

たしか高校のころに一度読んだはずだけど、答えが 42 であること以外は全く覚えていないことに気付いて、図書館で借りて再読。猿とハムレットとか、当時は知らずに素通りしてたな、多分今でも知らずに素通りしてるところがたくさんあるんだろうな、とニヤニヤしながら読み進む。
「フォード! ドアの向こうに数え切れないほどの猿がいるんだ。自分らの作った『ハムレット』の台本のことでぼくたちと話がしたいんだとさ」(p.111)
オリジナルはラジオドラマだったと解説に書いてあって、なるほどこれがラジオから流れてきたら必死で聴くよな、と納得。当時の自分に「解説読めよ」と言いたい。

銀河ヒッチハイク・ガイド (新潮文庫)

銀河ヒッチハイク・ガイド (新潮文庫)



大人のための「恐竜学」

恐竜、というだけで何でもそれなりに楽しめてしまう。恐ろしいジャンルだ。

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なお、恐竜の性に関しては謎も多く、例えば竜脚類のような大型種がどのような姿勢で交尾をしていたのかはまったくわかっていません。(p.115)
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「まったく」というところが、良い。

大人のための「恐竜学」(祥伝社新書)

大人のための「恐竜学」(祥伝社新書)


分類思考の世界

「進化」とか「認知」とか「分類」とか、興味のある分野が目白押しで、楽しかった。

扱う生物種が今後も増え続けるなら、最終的には、計算機にお願いすることになるのだろう。コンピューターさんが「ヒトの脳ミソの能力なら、過去の経緯も踏まえて、この分類がオススメですよ」とかいって差し出してきた分類を、だまって受け入れるしかないと思う。計算機のパターン認識はその程度に進歩するだろうし、人間の能力はそんなには変わらないのだろう。

以下、断片的に引用。パターン認識がてできたところでは、ちょっとした SF みたいにワクワクした。

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ところが、博物学者の活動が海外にまで拡大され、探検博物学が開花する十七世紀になると、コレクションのサイズが急激に膨張し、人の認知的上限を越えてしまう事態になったと彼は言う。個々のアイテムの個数でいえば「五〇〇」がわれわれ人間が耐えうる認知的リミットであるとされる。この限界に達するまでの博物学は、直感的な民族分類の段階にとどまっていた。
しかし、その認知的上限の向こう側には新たな科学が待っていた。それは「分類の科学」である。(p.275)
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多様な対象物を適切に分類し続けることは、ヒトにとって最節約的に記憶を整理すると同時に、より効率的な帰納的推論を可能にしただろう。そのような認知能力をもつことは、ヒトが自然界の中で生き残る上で有利に作用したにちがいない。(p.285)
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万物を分類すべく生まれてきたわれわれヒトは、実のところ自分自身にビルトインされた「分類思考」の正しい使い方を、誰ひとりとして知らないからである。(p.297)
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代わりに、そこにあるものは「パターン認識」である。多様な対象物を前にしたとき、そこにどのような「パターン」あるいは「種」を見いだすか、どのようなパターン認識がヒトにとってより「自然」であるか。(p.299)
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分類思考の世界 なぜヒトは万物を「種」に分けるのか (講談社現代新書)




系統樹思考の世界

系統樹というのが、何らかの形で歴史を扱うものであって、だから原理的に推論を含まざるをえないものだ、ということが丁寧に書かれていた。良い本。

祖国とは国語

最後の満州の文章が、嫌で嫌で仕方なかった。この人は、自分の故郷を美しいと言うためなら、自分以外の人々が住む土地を平気で醜いと書いてしまうのだ。

以下のくだりは、いいこと書いてると思ったが、全体的には弱者に配慮のない嫌な本だった。

その人の教養とか、それに裏打ちされた情緒の濃淡や型により、大局観や出発点が決まり、そこから結論まで論理で一気に進むということになる。どんな事柄に関しても論理的に正しい議論はゴロゴロある。その中からどれを選ぶか、すなわちどの出発点を選ぶかが決定的で、この選択が教養や情緒でなされるのである。(p.84)

祖国とは国語 (新潮文庫)

祖国とは国語 (新潮文庫)

巨大ウイルスと第4のドメイン

こういう野心的な部分のある科学の本が好きなのだ、と実感した。疲れているのに読み切ってしまった。

でもこの本で一番印象に残ったのは、この文章。さらりと流すなんて、ずるい。

ミミウイルスの仲間として新たに見つかった「ママウイルス」(Mamavirus)というウイルスがいる。(p.41)

マネジメント信仰が会社を滅ぼす

会社の先輩に貸してもらった本。今ちょうどマネジメントに関連する仕事をしていて、ちょうど仕事がしんどいと感じてる真っ最中なので、とても「楽しく」読んでしまった。正直、客観的に読めた自信はない。

以下の文は、自戒の意味で、覚えておきたい。

そんなことぐらい誰もが気がついている。それでも「マネジメント理論や手法によって会社や社員を変えられる」という思い込みを持ち、マネジメント本を読み漁るのは、「自分はマネジメントの勉強をすることによって、この厳しい状況を何とかしようと努力している」という自己満足を得たいからであろう。(p.149)

コレモ日本語アルカ?

日本語側と中国語側の両方から丁寧に分析されている。

日本語側は、宮沢賢治夢野久作にはじまり、後半には、サイボーグ 009、ゼンジー北京、らんま 1/2、銀魂ヘタリアまで目白押しで楽しく読めた。

中国語側は(中国語の知識がないので)読むのがしんどかったけど、最後まで読んで、中国語側の視点も不可欠な構成だと分かり、納得。良い本です。

あとがきから二箇所引用。

フィクションに登場する〈アルヨことば〉の使い手は、尊敬すべき崇高な人格者ではない。しかし一方で、特に私の子供時代に出会った戦後の作品では、明るく朗らかで前向きな、魅力的な人格も同時に表現されていたはずである。本書執筆の動機には、こういった子供時代からの〈アルヨことば〉への愛惜の念があった。(p.215)

本書に記してきたことを踏まえるなら、もはや政治的な文脈への配慮なしに軽々に〈アルヨことば〉を用いたり論じたりすることは慎まれるべきである。本書に記したことばの背後にある歴史についての知識や、またそれに伴う配慮が、新たな日本の常識となることを願ってやまない。その一方で、子供のころから好きだった〈アルヨことば〉の歴史をきっちりと描き出し、ある意味で永遠に供養したいという願いもまた本書の執筆を強く支えていたのである。多くの読書子に筆者の思いが伝わればこれに勝る喜びはない。(p.216)